深川物語 62

六十二

点滴には鎮静剤も含まれているという事でございましたが何時の間にか裕子様は心地よい寝息をたててお眠りになりわたくし一人が取り残されたのでございます。いよいよもって心細く寂しさと不安な想いは募るばかりで居たたまれないのでございました。泣き出したい気持ちをじっと堪えて殺風景な病室に身を硬くして章太郎様を今か今かと待ち続けたのでございます。章太郎様がお出でになったのは二時間も後の事でございました。わたくしは章太郎様の胸に取りすがりまるでわたくしが病人であるかのように泣き崩れたのでございます。わたくしは呆れた女でございます。泣きたいのを我慢なさって気丈に振舞っていた裕子様をよそにわたくしが章太郎様にすがり付いてどうなる事でございましょう。それでも章太郎様はわたくしを抱いてくださって「大丈夫だよ」と慰めてくださるのでございました。
「さっき先生にお話を伺ってきたんだがね今のところ取り立てて心配は要らないそうだよ。すべて明日からの検査の結果によるそうだからね。過剰に心配すると病人の為にも良くないそうだから心配はやめて見守る事にしよう。それが裕子の為なんだからね。奈々ちゃんには悪い事をしたね。僕が忙しくあちこち出歩いているものだから肝心な時に役に立たなくて奈々ちゃん一人に心配を掛けてごめんよ。大変だったろう?心細い思いをさせてしまったね。明日からはもう出歩くのはやめて裕子とお弟子さんと奈々ちゃんのために家に居るよ。だから涙を拭いて奈々ちゃんもベットでお休み。僕が裕子に付き添っているから」
そう仰って章太郎様は細い指でわたくしの涙を拭ってくださるのでございました。わたくしも章太郎様に来て戴いて安心感からかどっと疲れが出てきた様でございまして空いているベットに横になったのでございます。
何時眠ったのか判らないのでございますがふと目を覚ましますとしんと静まり返った病室の中でわたくしは夢を見ているように裕子様の傍らにうずくまり肩を震わせている章太郎様を見たのでございます。裕子様のお顔はますます青ざめて生気を失いそのお顔のお傍で章太郎様が嗚咽を堪えていたのでございます。男の弱みを見せまいとわたくしには大丈夫と言いながらもあまりにも青ざめた裕子様のご様子を見て心もとなく思った事でございましょう。わたくしが眠り呆けていたものでございますからお気が緩んだことでもございましょう。章太郎様はついぞ見せた事の無い涙を流しておいででございました。お優しい章太郎様のお姿を垣間見てわたくしもご一緒に泣きたい思いでございましたが夫婦の愛の狭間に入り込むのは憚られてわたくしは寝たふりを続けていたのでございます。しかしながら薄目を開けて章太郎様の後姿を見ておりますと章太郎様は裕子様の胸に手を当てて裕子様に口付けなされたのでございます。まるで眠りの森のお姫様の呪いを解くために為さった口付けのようでございましてそれはそれは美しい光景でございました。


ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック