深川物語 46

四十六

わたくしが裕子様を裏切っていたのは覗き見だけの事ではございません。章太郎様との事もございます。裕子様がお留守だったあの夜章太郎様に抱かれて愛されて以来わたくしは事あるごとに章太郎様に纏わりつきもう一度抱かれたいと其の機会を窺っていたのでございます。裕子様は踊りの発表会が終わってからと言うもの普段の生活に戻られて忙しく外出なさる事も無くわたくしは章太郎様と二人になる機会も失われたのでございます。章太郎様は冷静で消極的でございまして章太郎様の方からわたくしにお誘いがかかる事とてございません。まるでわたくしには何の興味も無さそうな風情でございましてわたくしは悶々としていたのでございます。殿方は一度手に入れた女には無関心と申しますが章太郎様もそのようでございましてわたくしに冷ややかなのでございます。ただ一度きりの愛だったのでございましょうか。あれほどまでに強く抱きしめて愛してくださったのにその後は求めてくださらないのでございます。わたくしの愛の心に火をつけておいて後はわたくしが自然に燃え尽きて灰になるのを待っているかのようでございます。わたくしは寂しくて苦しくて儚い思いで章太郎様を見つめているのでございますが章太郎様は父として兄としてわたくしに接するだけでございます。普段と変わらぬ落ち着きようでじりじりとして機会を窺うわたくしの熱い思いに気づいて下さる気配も見せないのでございます。何時ものようにお話したり時々微笑まれるだけでわたくしに熱い視線を向けては下さいません。わたくしは熱くたぎる心を持て余し悶々と章太郎様と裕子様の愛の戯れを覗き見して憂さを晴らしていたのでございます。一体章太郎様がわたくしに求めた愛は何だったのでございましょうか。ただの好奇心だったのでございましょうか。好奇心が満たされるともう終わってしまう出来心だったのでございましょうか。それだけわたくしには魅力が無かったと言う事でございましょうか。確かに裕子様に比べればわたくしは未熟な体の幼い女でございます。裕子様に比べてもっと魅力的な女性など居るはずもないのでございますからわたくしが貧相な女である事は明らかでございます。裕子様と比較してわたくしが優っているのはただ若さだけでございます。それが何でございましょう。裕子様はわたくしの若さなどより素敵な魅力を沢山備えているのでございます。凄いほどに綺麗なお顔立ち。優しく包み込むような微笑み。しなやかでめりはりのあるお体.すべすべでしっとりとしたお肌。女のわたくしでさえ引き込まれるような裕子様の魅力に勝てるお方はございません。それなら尚更にどうして章太郎様はわたくしをお抱きになったのでございましょうか。章太郎様を慕って迫るわたくしを哀れんだのでございましょうか。やはりただの気まぐれだったのでございましょうか。あの後はわたくしの哀れな一方的な愛に応えてくれる気配もないのでございます。わたくしはじりじりとして暮らしながら何時か来るであろうチャンスを窺がっていたので居たのでございます。小娘とはいいながら狡猾なわたくしで御座いました。そしてチャンスは来たので御座います。
それは十月も半ばの嵐の夜の事でございました。章太郎様のあまりのつれなさにわたくしは居た堪れずに発作を起こしたように章太郎様のお布団にもぐり込んだ事がございました。



この記事へのコメント

この記事へのトラックバック