裏街22

22

それから安田はお店に現れなかった。お店に電話も入らずあたしの方から電話もしなかった。あたしには安田に会いたい思いがあったのだけれど安田の家庭を壊してまで会いたい訳ではなかった。確かに安田はいい人だったけれど恋焦がれている人とは違っていた。どうしても逢いたいと思う程ではなかったのだ。やっぱり行きずりの恋だと思っていた。会いたいけど会わなくとも諦められるとあたしは高をくくっていた。その程度の恋だと思っていた。思い返しても裏道の安宿でもつれ合った思い出しかなく其れも一時の情熱で離れてみると空しいだけに思えた。男と女が愛し合っても残る物は何も無い。肌を合わせても離れてしまえば感触さえも残らないのだ。
奥様に怒鳴り込まれてあたしのプライドはずたずたになり思い返すと腹が立つ。しかしちょいと一服すると忘れる程度の事だった。あたしが受けた傷はそんなに深いものではなく日が経つに従って傷の痛みも薄れていった。あたしはそんなにダメージを受けていないと感じていた。其れはあたしの強がりかも知れなかったが、どうでも良い事だった。
お店は結構繁盛していてあたしの売り上げも伸びてお給料も増えた。しかしいかにも空しい稼ぎだった。退屈な日々はバッグやお洋服を買って気を紛らしていた。あたしには何の楽しみも張合いも無く荷物だけが増えてゆくのだった。紙袋に入れたまま放置されている洋服も増えていった。ただ買物をするだけが道楽で必要な物は何も無かったのだ。お給料の増えた分買物が増えてゆくだけで他に情熱を燃やす物は何も無かった。
こがらしの寒い季節が来て一人の部屋の侘しさが募る頃安田から突然お店に電話が入った。マスターは最初はマーちゃんなら居ないよと言っていたがあたしは大きな声で居るわよと言って電話に出た。
「暫くね」と言うと安田は声を潜めて「会いたい」と言った。
「今何処に?」
「いつもの宿だ」
「一人で?」
「後から女が来るからと言っておいた」
「女って、あたし?」
「待っているよ」
そこで電話は切れた。あたしはマスターに出かけるわと言った。マスターは行くなと言ったがあたしは聞かなかった。ハンドバックを持って寒い外に飛び出してお馴染みだった宿に向かった。木枯らしの強い夜だった。宿に着くと女中さんが無表情であたしを部屋に案内してくれた。あたしは部屋に入るなり安田に抱かれていた。安田は会いたかったと言ってキスを求めあたしもと言って安田の口を吸った。あたし達はもつれ合ってお布団に倒れこみ激情に駆られて愛し合った。
「忘れられなかったんだ。一日だって君を忘れた事は無かった。君が恋しくて恋しくて気が狂うようだった。何食わぬ顔をして会社に行き仕事をする振りをしていたけど仕事が手につかなかった。家へ帰っても考えるのは君のことばかりで子供の相手さえ出来なかった。僕は魂の抜け殻になってただ生きているだけだった。君を忘れようとしたが出来なかった。忘れてしまいたかった。僕には家庭があって五人の命が僕に掛かっている。僕には家族を守る責任がある。何とかして家族を守ってゆかなければ成らない。それには君を忘れて仕事に励むしかない。其れは判っていた。だけどもう僕には其れが出来ないんだ。君を忘れて生きてゆく事なんか僕には出来ない。僕は何もかも捨てて君と生きてゆきたい。会社も家庭も妻も四人の子供も総て捨てる。そう決めたんだ。麻里、僕と暮らしてくれ!」
唐突な申し出だった。あたしは気が動転していた。何も考えられなかった。安田にそんな情熱があったなんて。信じられないほどの情熱を見せて安田は語るのだった。
「僕と一緒に逃げてくれ。僕はもう君なしに生きて行けない。何もかも捨てる。僕には君だけなんだ。君が僕の命の糧だ。君もすべてを捨てて僕と一緒に逃げてくれ。僕は其の積りで来た。君をさらって行きたい。何処でもいい。君と暮らせるなら地の果てでもいい。君と暮らせる場所が僕の天国なんだ。麻里。覚悟を決めてくれ」
「いいわ」とあたしは言った。「あなたがそうしたいのならそうしましょう。あたしは何処にでも行くわ。あたしには何も無いから何時でも何処へでも行けるわ。捨てるものが無いから簡単だわ。あなたが欲しいと言うのならあたしを丸ごとあげる。あたしは本気で欲しがる男の物なのよ。あたしには夢も望みも無いのよ。あたしはただ生きているだけなの。あたしに生きてゆく力を呉れるならあたしはあなたと何処へでも行くわ」
別に何の考えも無かった。ただ安田の情熱に負けたのかもしれなかった。或いは暗示に掛かってしまったのかもしれない。それでも良かったのだ。あたしを本気で求める人が居れば身を投げ打って答えたい。あたしは男を選ぶのではなくて男に選ばれる女なのだと思っている。男に尽くしたい訳でもないのだが男に本気で愛されていたい。遊びの恋にはもう飽きていた。男の激情が冷めやすいものだと言う事は承知の上だった。冷めれば冷めたで良いのだ。冷めない恋が無い以上、恋が冷める日のことを恐れていては恋は出来ない。どの道あたしは根無し草だ。流れの侭に生きてゆくだけだ。それ以外にあたしの生き方は無いのだった。安田の情熱に押されて流されるだけだった。
其の夜あたし達は夢中で抱き合った。まるでこの世の最後の夜であるかのように愛し合った。痩せた安田の体にどうしてそんな力が漲っていたのか不思議なほどだった。ごつごつとした安田の骨があたしの体に突き刺さるように感じた。あたしの体のあちこちに擦り傷と打ち身のあざが残るほど激しく安田はあたしを愛してくれた。安田はあたしの名を何度も呼びあたしもそれにキスで答えた。あたしは安田の唇を噛んだ。安田は痛いとも言わずに血の滲んだ唇であたしにキスしてくれた。安田の唇は腫れあがっていたが僕は幸せだと言った。これでやっと人間になれると言った。あたしも幸せだと思った。あたしも人間になれると思った。


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